甘えでも貴方が居ないと自分は動けない

 

筆の擦れる音がする。
しばし止まるとふぅと言う溜息と共に、次は和紙が強く潰される音がした。
ふと目を開けてみれば、頬杖を付き眉を顰めた夫。

「お前さま……」
「おぉ、ねねか! どうしたんじゃ?」

その表情が気になり声をかけてみると、秀吉はひょいといつもの人懐っこい顔へと表情を変えた。
それが尚のこと心配してしまう。
自分がどんなに心配をして声をかけようとも、秀吉は笑顔で大丈夫などと言葉にし、気にしないように気を遣ってくれる。
しかし、ねねは溜息と握り潰された和紙の数の多さに胸を痛めていた。
今度の戦は秀吉にとって、とても辛い戦になることはもう分かっているからだ。
昔から想いを寄せていたお市、そして友人であった利家との戦。
それ故、二人共を死せずに出来るよう秀吉はここの所いつものように、昼間は三成らと共に、そして夜中は一人で策を練っている。

「お前さま……、そろそろ寝ないと体に障るよ?」
「そんな心配せんでも大丈夫じゃよ! ねねこそそろそろ寝んとな」
「でも……」
「……、そんな顔すんな。 分かった、もう少ししたら寝るとするわ」
「そう、良かったよ」
「ふむ、ねね……悪いんじゃが寝る前に一つ、茶漬けを作ってくれんかのう」

秀吉はそう言うと、また明るい笑顔を見せた。
夜半に茶漬けを要したのは久しくないことだった為、ねねは負けんとばかりの笑顔になり「はいよ、お前さま」と言うと釜元へと姿を消した。
ねねが居なくなると、秀吉はまた疲弊の溜息をつく。
しかし、先ほどまでとは違いこの世で一番美味なる妻の茶漬けが食べることが出来ると思うと、少しだけではあるが気持ちが落ち着いた。
待っている間、策を練りながらも時折、自分のことを心配そうな顔で見つめていた妻を思いだし少しだけ笑みがこぼれる。
本当に良き妻を持ったものだと……。

「お前さまー! お茶漬け出来たよ。 これを食べて少しでも体を休めてよ」
「おお、すまんな」

元気な声と共に襖を開ける音がすると、思わず腹の音がなる程の良い香りが漂った。
ぐぅという音を聞くと、ふふと鈴を転がすような声が聞こえた。
何とも気恥ずかしくなり、「早う、くれ」と手を伸ばすと、ねねは嬉しそうに「はい」と茶漬けを秀吉へと手渡す。
尚も笑い声は止まらない。
それを制するように、秀吉は音を立てながら飯を腹の中へと注ぎ込んだ。

「お前さま、味はどうだい?」
「ねねよりも上手い飯を拵えることの出来るおなごはおらんよ」
「ありがとう」
「わしこそ、無理を言ってすまんな」
「お前さまの為なら、無理なんてないよ」
「……」

ねねの言葉で胸の奥が染み込むように温かくなるのを感じた。
いつも隣を見ると微笑み支えてくれ、その上自分の為ならばと命までもを言葉にしてくれる。
それがどんなに幸せか、秀吉は奥底で噛み締めた。

「やはり、わしにはねねが必要じゃのう」
「何だい? 急に?」
「いんや、改めてそう思っただけさ」

するとねねは照れくさそうに、静かに礼を言った。
それを横目で温かな笑いを贈る。
彼女にいつまでも変わらない笑顔を……と願い、秀吉は戦への決意を固めるのだった。

甘えでも貴方が居ないと自分は動けない