紅の香り

紅の香り

「半兵衛。 ねぇ、半兵衛ったら」
「何ですか、お濃様」
書物を読んでいたのを邪魔された欝陶しさから、半兵衛は少し気怠い様子で生返事をした。
その態度を不快に思うどころか、満足そうに艶やかに濃姫は笑う。
それは魔王と呼ばれる信長の妻に相応しいものだった。
しかし、半兵衛には何かを見透かされているようで、好きになれないでいる。

「泣きっ面の半兵衛が見事に成長したこと」

そう言った後、また笑う 。 口に塗った紅が艶やかに光った。
この方には俺に話しかけた意味などないのだろう……。 だが、半兵衛はその唇を見るたびに居心地が悪くなった。

「これでも、知らぬ顔の半兵衛と呼ばれているんですよ?」

自分では分からなかったが、強く言ってしまったのかもしれない。
少しだけ濃姫の目が動いた。 しかしそれは一寸の出来事で、すぐに元の彼女に戻 る。

「そう、何も知らぬ顔を出来るって訳ね」
「まぁ、そういう事ですよね」
「じゃあ、天才軍師さん……」

そう半兵衛のことを呼ぶと、濃姫は彼との距離を詰める。
半兵衛は怪訝な顔をすると、その場から離れようとした。 …が、それは濃姫の細い腕に邪魔される。

「一体何がしたいんで……」

言葉を続ける事が出来なかった。 いや、言葉を遮られたと言った方が正しいか。
半兵衛に伝わるは柔らかな唇の感触だけ。
彼が1番苦手としたその艶やかな紅の香が鼻をくすぐった。

「こんなことされても、知らぬ顔……出来るわね?半兵衛」

これは何かへの挑発なのか。
それは彼女からは全くと言っていいほど読み取れな かった。
だが、自分も女一人に動揺するほど馬鹿な男ではない。

「ええ、してやりますよ」

彼が見せたのは、得意の屈託ない笑顔だった。