居場所

「……うぬはそれで良いのだな」
「うん、もう決めたことだから」

そう目の前の女が言葉を発すると、木々が騒がしい音を立てた。
このまま奪い去ってやろうか。
そんな感情が渦巻く。 それほどまでに女は弱々しいのだ。
いつもの覇気のある瞳が幻だったかのように、今見ている瞳は虚ろで何処か遠い、自分の居ない場所を眺めている気さえした。

居場所

「でね、小太郎。 一つだけお願いがあるの」
「……何だ」
「甲斐ちゃんのことなんだけど…」
「氏康の残した子犬は、我以外に面倒見ることなど出来まい?」

そう女の言葉を遮るように言うと、何故分かったのかと驚いた表情をしたがすぐに安心したように微笑んだ。
小さく泣きそうな声で「ありがとう」と囁いて、小太郎に少しばかり身を預ける。
それを小太郎は何も言わずに女の髪を撫でた。 そして人の気より未来を読む己を初めて憎む。
小さい華奢な身体に、最後の刻を感じたからだ。
何かを吹っ切ったように女は小太郎から身体を離すと、先程より少しだけ元気を取り戻したのか、小さく笑いここ最近のことを嬉しそうに話し出した。
それは本当にそこら辺に転がっていそうな有り触れた話。
子飼いの将である清正が気遣ってくれる、庭に綺麗な花が咲いた、くのいちと甲斐姫のやり取り。
どれも今までねねが散々嬉しそうに話してきたことだった。
しかし今はどれもを愛おしそうに言葉を続ける。 まるでこの話をするのは最後だと自らが言わんばかりに。

「ねね……」

そこで初めて女の名前を呼ぶ。
尚も微笑みながら瞳を小太郎の方へ向ける。

「うぬは……」

死ぬつもりなのか…そう言葉にしようとして喉の奥が苦しくなった。
こんな感情はこれまで抱いたことはなかった。
己が愚かだと嘲笑ってしまうほど、思考だけは動く。

うぬが居なくなった世で子飼いの将はどうやって暮らせばいい、亡き秀吉はそれを望んでいるのか、甲斐とくのいちの漫才をもう見なくても良いのか、豊臣家はどうなる、うぬを慕った奴の気持ちはどうなる。
我の前にもう姿を現さないつもりか……。

「小太郎?」
「うぬは弱い」

名を呼ばれて無意識に出た言葉だった。
ここまで豊臣家をまとめてきた女人に向けるものではないのだろうが、小太郎は優しく微笑むねねがただただ弱い女にしか見えなかった。

「あたしは……」
「我は我の道を往く」
「そうだね、それが小太郎には合ってるよ」

その言葉を聞くや否や風が吹くと小太郎の姿は消えてなくなっていた。

ねねがただ弱い女になっているのならば戻してやればいい。
混沌の風となって現れ、またねねに表情を取り戻させればいい。 迷惑な顔をされようが我には関係ない。 ただ自分の居場所を守るだけだ。
風に纏われながら、小太郎は静かにそう思うのだった。