気紛れ

「小太郎! こんな所に居たんだね!」

そう一際明るい声を上げたのは、女忍者でありながらにして信長の後を次ぐと言われている
秀吉の妻、ねねだった。

気紛れ

最早秀吉の天下統一も遠くないという状況の中、混沌の中で生きる小太郎は、
どうこの纏まりかけている世を崩そうかなどとぼんやり考えていた。
誰知らぬ深い松林の中ではあるが、誰かの気をすぐに感じ取れるようにして横たわった時だった。
その声が聞こえたのは…。
敵であるながらにして、こうして会いに来るのはねね曰く「友達が居なくて、不憫だから」らしい。
小太郎にしてみれば、それは余計な世話と言うもので迷惑極まりない行為だった。
しかし、騒々しくもお節介な性格は元からのようで、何を言ってもそして何も反応せずとも関係ないようで、
今日もこうして小太郎の元へと訪れる。

「どこ探しても居ないから、心配しちゃったじゃないの」
「我がどこに居ようと、うぬには関係なかろう」
「何言ってるの。 小太郎はもうあたしの子供のようなもの、関係ない訳ないでしょう!」

何とも理不尽な理由だ。
そう小太郎は心の中で溜息をつく。
面倒だと思いはするものの、ねねを前にすると全てが億劫になり去ろうという気がなくなるのだ。
それが目の前の女の術だとしても、小太郎には解く術はいくつもあるはずなので、やはり気分の問題なのだろう。

「こらっ、ちゃんとこっちを見なさい」

眉を吊り上げて、ねねは言葉通り自分の子供を叱るように声を上げた。
もう慣れた…というのは少々違うが少しでも反抗しようものなら、倍に返ってくることを小太郎は承知していた為、
ねねの方に渋々顔を向ける。

「そうそう、それでいいんだよ。良い子だね」

そう言って今までのことが嘘のように笑顔になると、小太郎の綺麗に結った赤い毛を崩さぬように気をつけながら、
頭をなでた。

「……結局うぬは何をしに来たのだ」
「ああ、そうだったね。 はい、これ……!」

尚も煩わしそうではあるが、自分の方へと目を向けてくれる人物へと
落ち着いた色合いの赤い綾の縫ってある半纏を差し出す。
しかしどう言う意味か分からず、目の前に向けられた半纏を不思議そうに小太郎は見つめた。

「これ、小太郎にあげるよ」
「そんな義理はない」
「義理とかそういうのじゃなくて、あんたのその寒そうな格好が気になるのよ」

そう告げた後、優しく小太郎の大きな手へと渡すと、無理矢理握らせる形に手押した。
不遜な態度に若干の苛立ちを感じるも、ねねから放たれる不思議な雰囲気は殺気まではいかないのである。
(我もまだまだということか……)
こんな華奢な体をしている女一人に圧されている自分を思い、クク…と笑うと
ねねは解せないと言った顔で小太郎を見上げた。
ころころと変わる表情もまた、他の武人とは違うところかもしれないと思うと、尚も面白い女人だと笑った。
当のねねはというと、そんなにこの半纏が嬉しかったのかねぇと思うくらいだった。
そうするとねねの言う言葉は一つであった。

「ねぇ、小太郎。 その半纏着てみておくれよ」
「……何?」
「着ているところを見てみたいんだよ。 ほら、早く!」
「着るわけがなかろう…」
「でも、受け取ってくれたってことは着てくれるってことじゃないの?」
「……」
「着れないなら私が着せてあげるからさ」

そんな小さな身体で何が出来ると口に出しそうになったが、またお説教とやらの気随に付き合うのは御免葬りたかった為、
無言を張る。
並の人間であれば身震いするような寒い季節へと移り変わろうとしている中、
薄い繻子のみの装束ではあるが、忍びとして生きる小太郎には関係のないことであり、
そして動きやすい方が何かと便益なのだ。
じっと見つめるも、口を開こうとしない偉丈夫を目の前にしてねねは残念そうな顔をして少しばかり溜息をついた。
その様子を一瞥した後、手の中に収まっている半纏に目を落とすと少しだけ糸が解れているのに気がつく。

「……これは、うぬが織った物なのか……?」
「え……?」
「ここに糸の解れがある……。 これを売っておる商人おるならば、許すべきことではないな……」
「ありゃ、本当だ。 ばれちゃったらしょうがないねぇ…。
ごめんよ、本当はもう少しちゃんとした物を織ってあげたかったんだけどね」
「……」

天下を平定しようというしている人物の妻が自分で織るなどと、何とも可笑しな話である。
こんなことは商人がやるものであって、織物をやるなど天下を平定しようとしている人物の妻であるはずがない。
しかし、そんな通例が通じないのがこのねねという女人だった。
頭の中で一頻り笑った後、「着てやらんこともない」と言った。
貶むつもりでたまには親孝行…などしてみるものも良いなど薄ら笑う。

「本当かい!?」

しかし、そんな厭味を通じたのか通じない振りをしているのか、ねねは花が開いた時のように笑顔になると、
小太郎から半纏を受け取ろうと手を伸ばす。
どうやら、自分で着させようと思っているらしい。

「このようなこと、うぬの手を借りずとも出来る……」

その手を軽く振り払うと、粗雑にいつ測ったであろうか自分に丁度合った半纏を着る。
小太郎の頭髪よりも淡い色の赤の半纏は、ねねの小さな心遣いなのか忍装束のように軽くそこらの雑魚ならば、
着て戦いに出ても大丈夫な代物だった。
ほぅと溜息のような感嘆の言葉を小さく漏らせば、ねねは笑顔のまま「寸法は合ってるみたいだね」と
胸を撫で下ろしたようだった。
珍しい物でも着たかのようにしている小太郎の表情を見て、満足したのかそっとねねは
小太郎の自分の背よりも高い所にある肩へと手を置いた。

「じゃ、あたしは帰るとしようかね」
「……たったこれだけの為に来たというのか……」
「ん、そうだよ? 何か可笑しかったの?」
「……いや」

何とも節介好きな女人だと、今日改めて思い直した。
最後にもう来るなと言おうと口開こうとするも、其れよりも早く「じゃあ、またね」と嬉しそうな声だけを響かせ、
声の主は姿は消していた。
一人になった小太郎は、暫しの間だけ呆然と立っていた。
元より一人だったが、微かに匂う花の香りと先ほどまでは身に付けていなかった半纏を見ると、
ねねが今まで居たのだと実感させる。
綾模様の微かに出来ている解れを、沿うように撫でると尚のことだった。
いつ、どちらかが命を落とすかは分からぬ時代。

「気が向いたら、また着てやらぬことも……ない」

そう呟き、小太郎は薄笑った。